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この記事で伝えたいこと
「休んだら、もう取り返せない」——そう思い込んでいませんか?
実はそれ、学校が植えつけた「出席・欠席」という発想の名残かもしれません。
この記事でお話しするのは次の2点。①私が大学の授業で「欠席」という言葉を学生に対して使うのを極力回避していた理由、②それを 「欠落」 という考え方に置き換えると、なぜ学びが止まらなくなるのか。
資格の勉強でも、独学でも、仕事のキャッチアップでも効く、ちょっとした発想の転換です。
「休んだら終わり」だと思っていませんか
こんにちは。ロゴ博士です。
風邪をひいて授業を一回休んだ。出張で勉強会に出られなかった。子どもの行事でセミナーに参加できなかった。
そんなとき、心のどこかで「ああ、置いていかれた」「もう追いつけないかも」と感じたことはありませんか。
この感覚、実はかなり根深い。私たちは小学校から大学まで、ずっと 「出席か、欠席か」 という二択で評価されてきました。出席簿に丸がつくか、バツがつくか。皆勤賞か、そうでないか。この刷り込みは強力で、大人になって自発的に学び直そうとするときにも、しっかり足を引っ張ってきます。
でも、考えてみてください。「欠席」という記録は、いったい何を語っているのでしょう。
私が授業で「欠席」という言葉を回避した理由
私は大学で長年、情報学の基礎科目を担当してきました。成績評価は100点満点で実施し、そのうち30点を「受講態度」に充てていました。大半の教員がそうであるように、「欠席」はこの領域から減点します。 ただし、ここで私は学生たちにこう宣言していました。
私は「出席」「欠席」という言葉で、あなたたちを評価しません。
代わりに使っていたのが 「欠落(けつらく)」 という言葉です。学習内容が完全に抜け落ちたら「完全欠落」、一部が抜けたら「部分欠落」。減点もこの欠落の程度で決めていました(完全欠落はマイナス2点、部分欠落はマイナス1〜1.5点、といった具合です)。
「それ、結局は欠席による減点と同じことでは?」
毎年そう聞かれました。気持ちはわかります。でも、この二つはまったくの別物なんです。
「欠席」と「欠落」は、何が決定的に違うのか
違いは一点。後から取り返せるかどうかです。
| 欠席 | 欠落 | |
|---|---|---|
| 基本概念 | 事務処理上の概念 | 学びの実態 |
| 記録対象 | その日その場にいたか | 何が身につかなかったか |
| 回復可否 | 取り消せない(済んだこと) | 補って消せる(これからやること) |
| 心の声 | 「やっちゃったー!どうしよう」 | 「必ずとりかえしてやる!」 |
「私は先週欠席しました」——この事実は、あとから何をしても変わりません。来週どんなに頑張っても、先週の欠席が「出席」に書き換わることはない。欠席とは、教育の本質からかけ離れた、ただの 事務取扱上の概念 と考えた方がわかりやすいのです。
ところが欠落は違う。「今日この部分が抜けてしまった」としても、次に「ここ、自分で勉強して補いました」と示せれば、その欠落は 消える。埋めた瞬間に、もう欠落ではなくなるのです。
同じ「休み」を、終わった事実として記録するか、これから埋める余白として捉えるか——たったこれだけの違いが、学ぶ人の姿勢を根っこから変えてしまうのです。
【補足】「欠席」が無用の長物かといえば、そうではありません。「授業回数の2/3以上の出席が必要」という大原則があるからです。これはほとんどの大学で採用されている運用で、私の職場でも科目間の公平性を担保する上で厳守が必要でした。 そこで、欠落とは別に「欠席」もきちんと記録・告知しておき、出席が2/3を下回ったら欠落とは無関係に単位の取得は認めない——このことを時間をかけて学生に理解してもらいました。
「補える」と認識するだけで、学びは続く
さて、ここからが今日いちばんお伝えしたい「核心」です。
「欠席思考」で生きていると、こうなります。休んだ → 遅れた → 取り返せない → もういいや。 一度つまずくと、そこで糸が切れてしまう。学生時代、一回休んだ科目がそのまま苦手になった経験、きっと誰にでもありますよね。
一方「欠落思考」だと、こうなる。抜けた → どこが抜けたか確認する → 埋める → 追いついた。 学びが止まらない。むしろ「どこが欠けているか」を探すこと自体が、立派な学習になります。
これは大人の学び直しにこそ効きます。資格試験のテキストを一章飛ばしても、それは「欠席」ではなく「未補完の欠落」。仕事で新しいツールの研修に出られなくても、後から同僚に聞けば欠落は埋まる。「もう手遅れだ」という思い込みの正体は、たいてい欠席思考なのです。
欠落を埋める道具を持っておく
とはいえ、「どう埋めればいいのか分からない」という欠落もありますよね。そんなときのために、道具箱の隅に一冊置いておくと心強いのが、読書猿さんの『独学大全』です。 本の探し方から挫折の乗り越え方まで、独学の技法が55も並んだ「勉強法の百科事典」。800ページ近い大著ですが、最初から通読する必要はありません。「いま自分に欠けているのはどの技法か」を探して、辞書のように拾い読みすればいい。まさに欠落思考と相性のいい一冊です。
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欠落は、ひとりで抱え込むものではない
もうひとつ大事なことがあります。私は授業を「教師と学生が一緒に作る作品のようなもの」だと考えていました。だから欠落が生まれたとき、それは学生だけの責任ではなく、一緒に作っている私の責任でもあると学生に伝えていました。
これは至って自然な発想だと考えていて、一般企業でも「部下の責任は上司も負うべきもの」ですよね。
これも学び直しに通じます。欠落を埋めるのは、孤独な作業である必要はありません。仲間に聞く、いい教材を選ぶ、道具に頼る——周囲を巻き込んで埋めればいい。「自分ひとりで完璧に出席し続けなければ」という発想こそ、捨ててしまっていいのです。
もちろん、教師側にもとことん学生と付き合う「覚悟」は必要になりますけどね。
まとめ
学びの本質は、その場にいたかどうかではなく、何が自分の中に残ったかにあります。出席という形式に安心した瞬間、人は学ぶのをやめてしまう。だからこそ私は、出席・欠席という物差しを手放したのです。
「欠席」という言葉を、いったん心から追い出してみてください。代わりに「いま、自分には何が欠落しているか?」と問う。それだけで、学びはぐっと前向きで、終わらないものになります。
余談:しかし現実は厳しく難しい・・・
最後に、余談を2つほど。
一つ目は、学ぶ側にとって「忘れてはならない」お話。それは「欠席していないんだから大丈夫」と安心してはいけない、ということです。
教師ならば誰もが、児童・生徒・学生に「座っているだけなら、誰にでもできる」と言いますよね。実際のところ、90分間その場にいたという事実は、「90分相当の学び」を少しも保証しません。「試験を待つことなく、常に態度・行動で示す」など、学びのエビデンスを提示する姿勢も大切ではないでしょうか。
2つ目は、「欠落」を強調しすぎると、学校不要論につながるのではないかという懸念についてです。
著名なYouTuberさんが「学校なんて要らない」と主張するところを見て、表面的な意味だけを汲み取って「学校へ行くのはやめよう」という人たちが増えるのではないか、と心配になるのは私だけでしょうか。
ただ、私はこうも思うのです。「欠落」を見つけるには、そもそも「何を学ぶべきだったか」という地図が要ります。その地図——体系立ったカリキュラムを差し出してくれるのが、ほかならぬ学校です。独学のいちばんの難所は、自分の欠落に自分で気づけないこと。だから「欠落思考」が行き着く先は「学校なんて要らない」ではありません。学校を「出席の場」から「欠落を見つける場」へ捉え直そう——そういう話なのだと、私は思っています。
次回の記事に向けて
では、本稿で取り上げた「欠落」を実際にどうやって補えばよいのか——次の記事『欠落を補完する技法——学びを止めない5ステップ』で、体験にもとづく具体的な実践手順をお話しします。「見ただけ」で満足しないための、ちょっとしたコツも添えて。
先にご紹介した書籍とは、少々異なるテクニックが存在するかもしれません。
あくまでも予定ですので、記事投稿をやめるかも(笑)。


